神が人を救おうとされる理由…その1
新約聖書でキリストはこのような例え話を語られた。
「あなたがたのうちに,百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら,九十九匹を野原に残しておいて,いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
そして見つけたら,喜んでそれを自分の肩に乗せ〔るであろう〕。」(ルカ15章)
この話について、ウークトドルフ長老はこう言われる。
「羊が神の救助を受けるにふさわしい理由は,単に良い羊飼いに愛されているからです。…
どのように道から迷い出たか,つまり自分の誤った選択のためであろうと力の及ばない状況のためであろうと,関係ありません。
大切なのは,皆さんが神の子供であるということです。神は御自分の子供である皆さんを愛しておられるのです。
天の御父は皆さんを愛しておられるので,皆さんを捜し出してくださいます。喜んで皆さんを御自分の肩に乗せて家に連れ帰り,『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』とおっしゃるでしょう。」
(ディーター・F・ウークトドルフ「主はあなたを肩に乗せて家に連れ帰ってくださるでしょう」より)
私は、数々の過ちを犯し、自分はもう神に救って頂くにはふさわしくないと思っていた。でも、違った。正しい人間であるかないか、どんな人生を送ってきたかどうかは関係ない。神が人を救おうとされるのは、ただ神が私たちを愛しておられるからだ。
母のマッサージ
少し前まで私の母はマッサージを職業としていた。
ある夜、母がマッサージの仕事を終えて帰宅した時、私は肩と腰が痛かったので、母に小一時間マッサージをしてもらった。もちろん無料で。
その時、本来職業としてお金をとる母に、なぜ私は無料でマッサージをしてもらえるのかを考えた。それは、母にとって私が息子という特別な存在だからだ。
神にとっても私たちは霊の実の息子・娘である。特別待遇である。膨大な恵みを無料で与えてくださっている(私たちの成長と喜びのために、戒めに従わないと頂けないものもある。それをも神は何とかして与えたいと考えておられる)。
救い主による罪の贖いも、私たちが救い主に従わない可能性があるにも関わらず、私たちを罪から救うために行われた。御父にとって私たちはまさに子であり特別な存在であり無条件に愛されているのだ。
その愛の深さを知った時、神に背いていた私は、霊の父である神と霊の長兄である救い主に従いたいと自ら望むようになった。御父の愛に応えたいと願うようになった。このように愛によって動機づける方法こそ、神の方法である。
神は私たちにイラっとするか?
先日、教会の聖餐会(礼拝)に出席していたときのこと。
会の途中で、3人の小学校高学年くらいの男の子たちがドヤドヤと入ってきた。席に座ってからも少し騒がしい。会の雰囲気を乱す彼らに私は少しイラッ。
でも、その時、神は彼らをどうご覧になるかを考えた。きっと、彼らの未熟な点を赦し、素晴らしい点を喜び、大きな愛ですべてを包み込まれるだろう。伸び伸び生きている彼らにイラ立つことなく微笑んで成長を見守られるだろう。彼らの犯す罪をすべて自ら引き受けて。
神は私たち大人をも同じ愛で見ておられる。神にとって私たちは霊の実の子である。また神にとっては私たち大人も、小学生と変わりないほど幼い存在なのだ。
一番大切な真理→神は私たちを愛している
「永遠にわたる一番大切な第一の戒めは,わたしたちの心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くし,力を尽くして神を愛することです。これが,一番大切な第一の戒めです。しかし,永遠にわたる一番大切な第一の真理は,神が御自分の心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くし,力を尽くしてわたしたちを愛しておられるということです。その愛は永遠にわたる土台であり,またわたしたちの日々の生活の土台でなければなりません。実際,わたしたちの心の中にそのような確信が燃え盛っているからこそ,わたしたちは向上しようと努力を続け,自分の罪の赦しを求め続け,その恵みを隣人にも及ぼし続けようという自信が持てるのです。」
ジェフリー・R・ホランド「あす,主があなたがたのうちに不思議を行われるからである」より