神の愛を感じて元気が出るブログ

私が神の大きな愛を感じた言葉や出来事です。

神にふさわしいと認められるのは誰か

「聖書に,キリストがパリサイ人シモンの家を訪れられたときのことが記されています。

表向きは,シモンは善良でまっすぐな人であるように思われました。宗教上のなすべき務めは常にこなしていました。律法を守り,什分の一を納め,安息日を守り,毎日祈り,会堂に行っていました。

しかし,イエスがシモンとともにおられたときに,ある女性がやって来て,涙で救い主の足を洗い,高級な油を主の足に注ぎました。

シモンはこの礼拝を見て快く思いませんでした。この女性が罪人であることを知っていたからです。もしイエスがそのことを知らないなら預言者ではない,預言者ならばその女性が自分に触れるのを許さないだろうと考えました。

エスはシモンの思いを見抜き,シモンの方を向いてお尋ねになりました。「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが,ひとりは五百デナリ,もうひとりは五十デナリを借りていた。

ところが,返すことができなかったので,彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで,どちらが彼を多く愛するだろうか。」

シモンは,多く赦してもらった方だと答えました。

それからイエスは一つの深い教えを授けられました。「この女を見ないか。……この女は多く愛したから, その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は,少しだけしか愛さない。」

この二人のうち,わたしたちはどちらに似ているでしょうか。

わたしたちはシモンのようでしょうか。自分の善い行いに自信を持ち,満足し,自分自身の義を頼みとしているでしょうか。…

それとも,自分の過ちを告白し,神の憐れみを請い,驚くべき贖いの計画に対する感謝の涙を流すのでしょうか。

救いは,従順という貨幣で買うことはできません。神の御子の血によって贖い取っていただくものなのです。」

 

 

(ディーター・F・ウークトドルフ「恵みの賜物」より)