神の愛を感じて元気が出るブログ

私が神の大きな愛を感じた言葉や出来事です。

自分の行えることの全てを

「預言者ニーファイは,神の恵みについて理解するうえで役立つ重要なことを教えてくれています。

『わたしたちは子孫と同胞に,キリストを信じ,神と和解するように説き勧めるために,熱心に〔働き〕続けようと努めている。それは,わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に,神の恵みによって救われることを知っているからである。』(第2ニーファイ25:23)

しかし,わたしたちはときどき,「自分の行えることをすべて行った後」という言葉を間違って解釈していることがないでしょうか。「行った後」は,「行ったので」と同じではないことを理解しておかなければなりません。

わたしたちは自分の行えることを全て「行ったので」救われるのではありません。わたしたちの中に,自分の行えることを全て行った人がいるでしょうか。神はわたしたちがあらゆる努力を尽くすまで,わたしたちの人生に手を伸べて救いをもたらす恵みを与えるのをお待ちになるのでしょうか。

求められていることを自分はいつも行えていないと落胆している人が大勢います。「心は熱しているが,肉体が弱い」ことを,彼らは身をもって知っています。彼らはニーファイとともに声を上げて言います。「わたしの霊はわたしの罪悪のために嘆く。」(第2ニーファイ4:17)

ニーファイは,救い主の恵みによって人は罪を克服することが可能となり,そのための能力を授けられるということを知っていたに違いありません。だからこそ,ニーファイは子孫と同胞に「キリストを信じ,神と和解するように」説き勧めようと非常に熱心に努めたのです。

結局のところ,それがわたしたちの行えることであり,現世での務めなのです。」



(ディーター・F・ウークトドルフ「恵みの賜物」より)

愛と感謝の気持ちから従う

「救いは,従順という貨幣で買うことはできません。神の御子の血によって贖い取っていただくものなのです。…

恵みが神の賜物であるなら,なぜ神の戒めに従うことがそれほど重要なのでしょうか。なぜわざわざ神の戒めを守り,さらに言えば,悔い改めるのでしょうか。自分が罪深いことを認めて神に救っていただけば,それでよいのではないでしょうか。…

わたしたちが神の戒めに従うのは,神を愛しているからです。…

ですから,わたしたちが神の戒めに従うのは,神の慈しみに対するわたしたちの限りない愛と感謝から生じる自然な結果なのです。このような心からの愛と感謝の気持ちを抱くとき,わたしたちの行いは神の恵みと奇跡的に結び合って一つとなります。絶えず徳で思いが飾られ,神の前において自信が増します。」



(ディーター・F・ウークトドルフ「恵みの賜物」より)

神にふさわしいと認められるのは誰か

「聖書に,キリストがパリサイ人シモンの家を訪れられたときのことが記されています。

表向きは,シモンは善良でまっすぐな人であるように思われました。宗教上のなすべき務めは常にこなしていました。律法を守り,什分の一を納め,安息日を守り,毎日祈り,会堂に行っていました。

しかし,イエスがシモンとともにおられたときに,ある女性がやって来て,涙で救い主の足を洗い,高級な油を主の足に注ぎました。

シモンはこの礼拝を見て快く思いませんでした。この女性が罪人であることを知っていたからです。もしイエスがそのことを知らないなら預言者ではない,預言者ならばその女性が自分に触れるのを許さないだろうと考えました。

エスはシモンの思いを見抜き,シモンの方を向いてお尋ねになりました。「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが,ひとりは五百デナリ,もうひとりは五十デナリを借りていた。

ところが,返すことができなかったので,彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで,どちらが彼を多く愛するだろうか。」

シモンは,多く赦してもらった方だと答えました。

それからイエスは一つの深い教えを授けられました。「この女を見ないか。……この女は多く愛したから, その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は,少しだけしか愛さない。」

この二人のうち,わたしたちはどちらに似ているでしょうか。

わたしたちはシモンのようでしょうか。自分の善い行いに自信を持ち,満足し,自分自身の義を頼みとしているでしょうか。…

それとも,自分の過ちを告白し,神の憐れみを請い,驚くべき贖いの計画に対する感謝の涙を流すのでしょうか。

救いは,従順という貨幣で買うことはできません。神の御子の血によって贖い取っていただくものなのです。」

 

 

(ディーター・F・ウークトドルフ「恵みの賜物」より)

 

 

 

 

 

神の王国に入る門は開いているか

「わたしたちは皆「罪を犯したため,神の栄光を受けられなくなっており」,「清くないものは,どのようなものでも神の王国に入ることができない」ので,全ての人は神のみもとに帰るにふさわしくありません。

 たとえ全身全霊を尽くして神に仕えたとしても,十分ではありません。わたしたちはそれでもなお「ふつつかな僕」だからです。天への道を自分で勝ち取ることはできません。正義の要求が障壁として立ちはだかり,わたしたちは自力では乗り越えられないのです。

 しかし何の手立てもないわけではありません。

 神の恵みが,わたしたちの大いなる永遠の望みです。

 イエス・キリストの犠牲によって,憐れみの計画が正義の要求を満たし,「人々が悔い改めを生じる信仰を持てるようにするその道を設ける」のです。

 わたしたちの罪は,たとえ緋のようであっても,雪のように白くなります。わたしたちの愛する救い主が「すべての人のあがないとしてご自身をささげられた」ので,主の永遠の王国への入り口がわたしたちに用意されているのです。

 門は開かれています。」

 

 

(ディーター・F・ウークトドルフ「恵みの賜物」より)

 

 

 

つまずいても救い主がおられる

「向上を望む人,戒めが必要であることを認め,それを守ろうと努める人,そしてキリストのような徳を愛し,それを身につけようと全力を尽くして努力する人,そのような人を主は祝福してくださいます。その過程でつまずくことがあれば―誰でもつまずいてしまうのですが,皆さんが努力し続けられるよう助けるために,救い主がおられます。失敗したら,もう一度主の力を呼び求めたらいいのです。アルマのように,「イエスよ,…… わたしを憐れんでください」と叫び求めてください。主は再び立ち上がれるように助けてくださいます。主は,皆さんが悔い改め,償い,修復すべきところを全て修復し,努力し続けられるように助けてくださいます。そうすればやがて自分の求める成功が得られることでしょう。…

 

 天からそのような深い愛情が絶えずわたしたちの生活に注がれているとしたら,しかもそれが主イエス・キリストの生涯と死,そして贖罪の中に,最も純粋に,かつ最も完全な形で現れているとしたら,罪や愚かさの結果から―それが自分によるものであろうと他人によるものであろうと―逃れることができるのです。それが日々の生活の中で,どのような形でわたしたちに影響を与えているとしてもです。わたしたちが神に心を委ね,主イエス・キリストを愛し,最善を尽くして福音を実践するならば,いつもその結果を認識できるわけではありませんが,最終的には,明日もその次の日も,すばらしい日となることでしょう。…なぜなら,天の御父がそう望んでおられるからです。」

 

 ジェフリー・R・ホランド「あす,主があなたがたのうちに不思議を行われるからである」より

 

 

 私は毎日つまずいている。それも同じ原因でつまずいていると、何とも情けなくなる。もう神の憐れみにすがる他ない。救い主が私の失敗に対する代価を支払ってくださったおかげで、私はもう一度立ち上がって進むことができる。それを信じる他ない。

 

 

神が人を救おうとされる理由…その2

神は人を救おうとされる。それは、神にとって私たち人間が全員、霊の実の子どもであり、神が私たちを無条件に愛しておられるからだ。人類史上最も極悪非道の者をさえ、神は愛しておられるのだ。私のような弱く愚かな者も含め、神が人を救おうとされるのは、ただ神が愛にあふれたすばらしい御方だからだと思っていた。


でも、ある朝、教会指導者の話を読んでいて、もう一つ理由があることがわかった。それは、私たち自身が救われるに値するだけの価値を秘めている、ということだ。こう書かれていた。


「わたしたちは全能の神によって造られました。神は天の御父であられます。わたしたちは文字どおり神の霊の子です。わたしたちは,きわめて貴く,高純度に精錬された上質の素材でできており,そのため内部に神性を構成する要素を持っています。

しかし,この地上において,わたしたちの思いや行いは,堕落した,清くない,不純なものに妨げられます。この世界のちりと汚れがわたしたちを汚し,自分の生得権と目的を認識し思い出すのを阻みます。

しかし,その全てをもってしても,わたしたちが本来何者であるかを変えることはできません。わたしたちに本来備わっている基本的な神性は残ります。そして,心を愛する救い主に向け,弟子としての道に足を踏み出したとたん,奇跡的なことが起こります。神の愛が心にあふれ,真理の光で思いが満たされ,罪を犯す望みが消え始め,これ以上暗闇を歩きたくなくなるのです。」

(ディーター・F・ウークトドルフ「主はあなたを肩に乗せて家に連れ帰ってくださるでしょう」より)


人間も動物も植物も、子どもは将来親のように育つ素質とDNAを持っている。だから、人間が神の子どもなら、人間には霊の親である偉大な神のようになる素質が眠っているはずだ。私はいつも自分自身を価値のない者だと考えがちである。しかし、神は私たちのことを、救い主イエス・キリストの命を犠牲にしてまで救う価値のある者だと見ておられるのだ。そのことをいつも覚えていられたら、私ももっと前を向いて生きていけるんだろうなぁ。

神は悪人をも愛しておられる

私は、悪人に希望を与える話が大好きである。なぜなら私は、もし「あなたは善人か?」と問われるより、「あなたは悪人か?」と問われた方が「はい」と答えやすい気がするからである。心の底から悪に染まっているとは思わないが、汚れた気持ちを抱くことは度々あるし、実際多くの罪を犯してきた。


浄土真宗親鸞は、「悪人正機説」というものを説いた。それは「善人が極楽に行けるなら悪人はなおさら行ける」という教えだ。つまり、善人よりも悪人の方が極楽に行きやすいというのだ。一体どういうことか?


親鸞は若い頃、煩悩を捨て良い行いをすれば極楽に行けるという教えを必死に守ろうとした。しかし、どう頑張ってもそれを完全に行うことができずに苦しんだ。そんな時、極楽というのは、自分の力で行けるところではなく、自分の愚かさを認めて仏の憐れみによって救って頂くところなのだ、という教えに出会う。そうして親鸞は、煩悩を捨てきれない自分でも極楽に行けるという希望を見出したのだ。


だから、親鸞の「悪人正機説」とは、善人よりも悪人の方が自分の愚かさを自覚しているので、もし自分の愚かさを自覚していない善人ですら極楽に救って頂けるとすれば、愚かさを自覚している悪人はなおさら救って頂けるだろう、ということだと私は理解している。(実際のところ、私は自分の愚かさをきちんと理解することさえできていないだろうが…。)


聖書にはこんな言葉がある。


「あなたは彼らに言え,主なる神は言われる,わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が,その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ,心を翻してその悪しき道を離れよ。…」(エゼキエル書33:11)


「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きなよろこびが天にあるであろう。」(ルカ15:7)


神は悪人をも愛してくださる。悪人が滅びに至る道を離れ、幸せに至る道を歩むことを心から望んでおられる。そして、悪人が生き方を改めたいと思った時、過去の罪が新たな出発の妨げとならないように、キリストが全人類の罪を背負うという計画を用意してくださった。悪人に対する神の愛は、弱く罪深い私に大きな励ましを与えてくれる。